物語りたい

まだまだ物語り足りない

原作と脚本

このドラマ(映画)、面白い!!

 

と思い、誰の作品だろう?と思って、調べてみる。

すると、十中八九、原作は脚本家のオリジナルではなく、小説であったりマンガであったりする。

世の中では、テレビドラマや映画の数に匹敵する数の小説や漫画が出版されていて、それを読む人はこれを映像化してみたいと思ったり、映像化したものを観たいと思ったりするだろうから、このことそのものは可笑しいことではない。

しかも、オリジナルの脚本(家)を発掘したり、育てるよりも早く、面白い原作が小説や漫画の中にあって、それが先に目に留まれば、そこからドラマ化され映画にされることの方が自然だ。

一方で、オリジナルの脚本で良質のドラマや映画を味わうこともあって、その脚本家に興味を持つこともあるが、原作が小説や漫画にあり、そこから映像化されるドラマや映画であることの方がやはり一般的である。

そういう捉え方をすれば、いかにも原作者がもてはやされ、脚本家はその原作をシナリオに書き直す、一つの部署で、1スタッフであるように捉えられかねない。しかし、実際に作られる映像作品の出来を決めるのはシナリオだ。

映像の特性や、俳優陣の持ち味を引き出す、そういうところまで原作は考慮されて書かれていないことが大抵なので、当たり前と言えば、当たり前である。しかし、自分がここで書きたいのは、それでも脚本家の持つ力についてだ。

原作を映像作品に作り直す際に、シナリオに書き直しにくいものもあるだろうし、原作がただ話題性に優れ、内容がサッパリということもある。また、原作が大作でその分量を映像化すると端折らなければならない部分が多く、原作の丁寧な表現が味気ないものになってしまうこともあり、逆に原作が見落としたり、簡単に書きすぎてつまらなくしてしまっているところを脚本が補い映像作品の方が数段面白い!という作品もあるのだ。

 

そんな脚本(家)のおかげで、面白くなったテレビドラマや映画を自分はずいぶん知っている。ここでは、原作作家バッシングに取られかねないので敢えて名を挙げることは避けるが、とりあえず最近のテレビドラマ化された原作(小説や漫画)で気になるものを読んでほしい。脚本(家)の持つ力を再認識できるはずだ。